新社屋完成物語

決断
松庄の新社屋が完成したのは平成8年11月のこと、そうあの阪神大震災の翌年。

旧店舗は前3分の一が店舗でその後方に事務所・食堂・活洲等がひしめき合っていた。当然作業性は最悪。例えば昼網物が帰ってくると直ちに仕入れた魚を活洲に入れなければならないのだが、旧社屋では活洲が店舗の奥にあり、しかも容量も今のような巨大なモノではなかった、その為に効率の良い作業ができず、魚の出し入れだけでも大変な手間がかかった。時には一つの魚を取り出すのに全ての魚を一旦放り出さなければならなかったりと......。

作業が多いということはそれだけ人の手と時間がかかるということである。それ故に魚を料理するということまで手が回らなかったのも事実であった。作業場のレイアウトを整備すればもっと作業が簡素化される。そのことが時間の短縮と手間を省き、それだけ他の仕事ができる可能性を生むといことにつながる。時間や人的なゆとりが生まれるとそれまで手が回らなかったサービス(例えば魚の料理)を行うことも可能になってくる。当然お客さんにも喜んで頂ける。

しかしこれを実現させるためには、まず作業場を整備し作業の動線を見直さなければどうにもならなかった。しかも一部だけやり直すといことは不可能で、前面改装するしか方法はなかった。当然莫大な資金が必要になってくる。当時の会社にそんな資金などどこにもなかった。それどころか私自身も入社してまだ5年、父親も他界してまだ日が浅い。仕事面でもまだまだ未熟者だったし、ここでこんな大勝負に出る勇気も器もなかった。少々作業がきつくてもここまま無借金でやる方が気も楽だ、しかもまだ30代前半、なにも今ここでこんな無理をしなくても......いずれ時期がきたらその時は自分にも多少なりとも貯蓄もできるだろうし、そうなれば実行したらよい。正直その程度の思いしかなかった。

無借金経営があたりまえだった当時は銀行から融資を得るなんてことを考えてもみなかったし、それだけの信用があるはずもないと諦めてもいた。しかし毎日の仕事をこなす中、作業上での限界は感じていた。さらにはもっとお客さんによりよいサービスを提供していかなくては何れはダメになる......そんな思いもあるにはあった。

ある時友人がこんなことを私に言ってくれた「いずれ改装しようと思てるのなら何故今やらん!それに借金して建てるなら若いうちに借りる方が後々の返済も楽とちがうか!」確かにその通りである、しかしそんな半端な額じゃない!人から言われて「ハイそうですか」と言えるものではない。改装に対する思いは日増しに強くなるものの一方で現実に直面する......ずいぶと悩んだ。

決意が固まったのは、あの平成7年1月に起こった阪神大震災。この時、店はダメージを受けたものの全面改装しなければならないというほどのものではなかった。現に補修にかなりのお金をかけた。
それは被災者の姿を目の当たりに見た瞬間だった。これまでの考えが吹っ飛んだ。あれだけの被害にも関わらず賢明に立ち上がろうと頑張る人々の姿、そこに生きるということの凄さ、パワーのようなものを感じた。このことに比べたら自分のやろうとしていることなんて"たかが....."である。「失敗してもそれがなんだ!一からやり直せは良い」ようやく決意が固まった。やろう!....そうなると後は実行に移す手順を考えるだけだった。

コンセプト
新社屋建設はおそらく自分の人生の中で最大の事業となる、中途半端にはできない。当然家族・従業員の理解がいる。そのためにも決心が固まるとまず何のためにやるのか、そしてどれだけのリスクが生じるのかを明確にした。
家族・従業員を集め、今回の事業について説明した。内容はこうである「今回の改装の目的は売上を上げるためではない」まずもってこのことを明言しておきたかった。お店は"綺麗になったからといって売上が上がる"そんな単純なものではない、むしろ逆で従来と同じ商売を行うなら、お客さんはある種の反発や気取りといったものを感じるかもしれない。改装はあくまでお客さんにとってメリットのあるものでなくてはならない、これが大前提である。そのためにどうするかである。

まずは作業効率をアップさせることを説明した。そうすることでこれまで以上に料理の頻度を上げることができる、つまりより多くのお客さんにより良いサービスが提供できる。例えばマルアジの刺身用なんて従来のシステムでは不可能であった。しかし作業のシステムを洗い直すことで可能にすることができるはずだ。

次に仕入に対する受け入れ体制を整えることで、昼網物を中心とした商売をより徹底させやすくなる......このことを説明した。魚の棚は昼網物のイメージが強いものの、意外と多く他地区の魚が出回っている。実際昼網物を販売するにはかなりのリスクが生じる。品物に対するリスクだけではなく、昼のかきいれ時に漁港まで仕入に出向かなくてはならないという人的面や、活洲の設置等の設備面でのリスクもある。それ故に昼網物を中心とした商売は困難ではあるが、お客さんが期待しているのはまぎれもなく昼網と呼ばれるとれたての魚である......これは確かだ。

もし最初に売上を上げるということを主張してしまえば、おそらく誤解が生じるであろう。改装するためには銀行から融資を受ける必要がある。採算ベースでのみ考えるのなら、期待した売上が見込めなかった場合、事業は失敗したと解釈される。しかしそうではないことを充分に理解して欲しかった。
説明を終えた後、最後に皆に意見を求めた。幸い反対する者は出ずここに家族・従業員の同意を得ていよいよ新社屋建設に向けて本格的な準備がスタートした。
全員が改装へ向けて一つになった。

準備
まずは大まか見積をとってもらった、融資を受ける為である。これがダメなら全ての計画は水の泡となってしまう。しかし予想していたほど困難なものではなく、約1億5千万円の融資を銀行等から受けられた。これで決まりである!後は本格的な工事へと駒を進めていくだけだ 。
施工会社は、2社が共同して行うということに決定した。といのも1階の店舗の部分はどうしても水産関係独自のノウハウが必要となってくるで、日頃からお世話になっている業者に全ての主導権を持ってもらうことにした。

次に出てきたのは工事期間中、商売をどうするのか、食事・トイレはどうするのか等であったが、商売は工事現場のビニールシートの前でほそぼそと行うことに。食事とトイレはプレハブの仮説事務所を建てることでクリア。工事期間約半年、かなり不自由ではあるが辛抱辛抱。

設計
さてついに設計である。まず問題となったのは1階の店舗部分である。私は1階は全て作業場とする予定でいた。しかしこれは大きすぎるという指摘があった。母親も食堂を2階に持っていくのは異論はないが、事務所までもを2階へ持っていくという案にかなりの抵抗を示した。商店街を歩くとよく目にする光景であるが、昔の建物はたいてい事務所は1階の奥にある。これは事務の作業が行いやすいということ以外にここから従業員を見張る?睨みを効かすという考えがあったようだ。今時そのような考え方はバカバカしい。

仕事の効率面からしても文明の利器?を使えばまず問題は生じない。それだけ便利な物が出回っている時代、それらを駆使すればよい。そんなことより事務所に1階の貴重なスペースが取られるというのがどうしてもいやだった。

今回は旧店舗の2倍の活洲の導入を予定している。浄化槽だけでもかなりのスペースになる。旧店舗中、夜メジャーで建物の長さを測り、自分なりに活洲・冷凍冷蔵庫・まな板などを配列した簡単な図面を作成してみたが、建設会社のいうように広すぎるということはけっしてない!むしろ私の図面の中ではまだ狭い位だった。最終的には持論を押し通し1階は全てを作業場とすることに決定した。.........このことは結果的には予想以上に正解だった。

施工
そしてその次はもう少し具体的な部分へ......
活洲・冷凍冷蔵庫・まな板をどうするのか。そして重要なことはこれらの配置である。なぜ配置がそれほど重要かと言えば、これで作業の動線が決まるからである。これを間違えると命取りになる。余分な作業を発生させてしまったらせっかくの改装も意味がなくなる。幾度も幾度も図面上でシュミレーションを重ねた。

作業場を広く使う為にはまず冷蔵庫をめいいっぱい後方に持っていく必要があった。しかしこの場合、朝の搬入が大変なる。逆に前方に置くと作業場が狭くなる......いったいどうすればよいのか!そこで考えたのがキャリアを使用するということ。それにはトラックから荷を降ろして冷蔵庫に入れるまでの通路の確保と、重要なことは通路と冷蔵庫との間に段差を付けずフラットな状態にするということである。段差が付くと冷蔵庫手前から手作業で搬入しなければならない、明らかに無駄が生じてしまう。結局1階の作業場は全てキャリアを使用することに.....これでかなり手間が省ける。

次に活洲の設置場所はこれでよいのか、そして活洲そのものの容量さらには長さ・幅・高さも作業性を考慮し徹底的に検証した。だが困ったことに今回の活洲は店舗の大きさからして、大きすぎるという指摘があった。「まるで海の上に家を建てるかのようだと」......しかし鉄骨部分にアルミメッキを塗りつけるという方法でなんとかクリア、費用が上がるのは仕方がない、ここは心臓部、妥協できる箇所ではない!

まな板に至ってはまさに最重要商売道具といっても過言ではない。まずはどういったタイプのものにするのか。かつて務めていた○△社のバックルームへ行き写真を撮らせてもらってこれをもとに検討。次に何台導入してどういった手順で作業していくのかを幾度も図面上でシュミレーションしてみた。最初は従来通り全てのまな板を壁に向けて配列してみた。しかしこれはダメだ、いくら作業場といえどお客さんにお尻を向けるのはどうだろう。そこで一番手前のまな板のみをお客さんと対面になるよう向きを変えてみた。そうすることでお客さんの方を向いて料理することができるし、商品の受け渡しも楽になる。さらには見た目を華やかにする為、このまな板だけ他の物より大きく設計し直し、ここで調理する人に向けられたライトも設置した。作業場での仕事は何も裏方ではない、お客さんに調理する様子を見て楽しんでもらう......これまでにない発想が生まれた。又そうすることで料理をする人の意識も向上する。

こうやって活洲・冷凍冷蔵庫・まな板等全ての設計・配置を作業性や作業の動線と照らし合わせ幾度もシュミレーシュンし、ようやく1階の図面を完成させた。

次に2階である。1階部分に神経を集中しすぎたせいか、2階はかなりおおざっぱであった。社長室や応接間そんなものはいらない。みんながくつろげる食堂、それに事務所その横にゴロゴロできる和室があれば充分だと。今も事務所には応接セットなるものはない、ラフなスタイルが良いと思った。

最後に3階、これは正直ちょっと贅沢なオマケ。費用面でもそう変わらないというのもあった。しかし使用目的がなくてもここを造ることで全体にかなりのゆとりができた。せっかくだからここには年末使用する焼器を置くことに.....普段は完全に物置状態だが、これはこれでけっこう助かる。

完成

工事は5月のゴールデンウィーク明けから始まった。
完成まではプレハブの仮設で不自由だった上、商売も思い切ってできずストレスが溜まりイライラする毎日であった。さらには近所からの苦情もあった。そしてなにより商売が充分にできないといことがこれ程苦痛を伴うとは.......日が経つにつれそれだけ経営が圧迫されてくる。結局、人件費等で追加融資を余儀なくされてしまった。後半はひたすら忍耐で完成を待つしかなかった。精神的にもかなりきつくなってきていた。そう言えば工事が途切れた時に建設会社に「どうなってるんや!」とクレームをつけたりもした。今では笑って話せるが当時はやはり焦りがあった。

11月新社屋がついに完成。しかし喜ぶにはまだ早い。ここからが大変なんだ。まず気になったのはやはり作業動線である。図面上でシュミレーションした通りにいくだろうか。図面と実物は違うだろうし。まな板の使い勝手はどうか。スペースは有効に利用できるか。広すぎないか、或いは狭すぎないか。

結果は全てが思った以上に好調であった。一応一安心である。ハード面ではまず問題がない。
次はソフト面である。最初に掲げたコンセプトを元に実際に実行に移さなくては意味がない。これができなくては「嗚呼、店が綺麗になったなぁ〜」で終わってしまう。まずは従業員の頭をこれまでと切り換えてもらわなければならない。しかしこれが意外と難しい。表面的な理解は示せても簡単にこれまでのスタイルを変えることは出来ない。

事実開店当初お客さん反応はあまりよくなかった。気取りを感じたのかもしれない。お客さんにしてみれば「お店が綺麗になってそれがどうした!中身が変わらなくては意味がない」そう言いたかったのかもしれない。ハード面ははっきり言ってお金があれば達成できる。我々が何をしたわけでもない、強いて言えば私が資金繰りをしたにすぎない。

全てはこれからのソフト或いはメンタルな部分で勝負がきまる。従業員を集め最初にコンセプトを明確にしたのも改装後のソフト面に対しての期待からである。予想通り作業は楽になった。これまで以上に仕入に対する受け入れ体制も整った。これからが勝負だ!ここからは実際の現場で計画を立て、それを実行に移す、さらには検証していかなければならない.....そして大切なことは何度も繰り返しやることだ。

目的を現実のものにし、より多くのお客さんに満足して頂いてもらうことに意味がある。それができてはじめて今回の設備投資が身を結んだといえるのではないだろうか。

最後に
働きやすい環境を作ることは大切なことである、良い人間関係を築き上げるというのもその一つである。しかし我々がお客さんからお金を受け取るプロである限り、決して自己満足や独り善がりのものであってはならない。又拘束された時間一生懸命に働けばそれでよいというものでもない。お金を頂いた対価としてそれに見合うだけのサービス・技術・労力を提供し、お客さんに満足して頂く、それこそがプロなのでは。

一つの目標を達成した時、必ず満足が得られるだろうと思っていたが、商売に関してはけっしてそれは得られなかった。すぐにまた新たな目標或いはもっと別の角度から本質を見つけだそうという思いが生まれてくる。しかしそのひとつひとつの達成感が人を大きくするというのは確かなことだ。
仕事はやはり面白い、自分自身を成長させてくれるものでもあるし、手応えを感じることもできる。
しかし幸せとは、利害が絡む商売からではなく、もっと別の場所にあるというのもまた事実だ。

2001/9/2

Copyright(c) 2002 matsusyo.co.ltd. All rights reserved

Home